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東京高等裁判所 平成3年(行ケ)13号 判決 1992年11月10日

大阪市北区本庄西三丁目九番三号

原告

株式会社ニッショー

右代表者代表取締役

佐野實

右訴訟代理人弁理士

中西得二

東京都千代田区霞が関三丁目四番三号

被告

特許庁長官

麻生渡

右指定代理人

磯部公一

田中靖紘

田辺秀三

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  原告

「特許庁が平成一年審判第一四一〇〇号事件について平成二年一〇月一八日にした審決を取り消す。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決

二  被告

主文と同旨の判決

第二  請求の原因

一  特許庁における手続の経緯

原告は、名称を「重炭酸塩系透析液の調製法」とする発明について、昭和五四年三月一日、特許出願をし、同六一年七月二四日、出願公告されたが、平成元年四月七日、拒絶査定を受けたため、同年八月三〇日、審判を請求した。特許庁は、右請求を平成一年審判第一四一〇〇号事件として審理した結果、平成二年一〇月一八日、右請求は成り立たない、とする審決をした。

二  本願発明の要旨

「重炭酸塩含有濃厚液とカルシウム塩およびマグネシウム塩含有濃厚液の少なくとも一方を稀釈水で稀釈して後該両液を混合し調製する透析液調製法において、前記稀釈水があらかじめ所定温度に加温され、かつ脱気されていることを特徴とする重炭酸塩系透析液の調製法。」

三  審決の理由の要点

1  本願発明の要旨は、前項記載のとおりである。

2  引用例一(昭和五三年二月一五日発行、「人工臓器」七巻二号四九二ないし四九五頁)には、重炭酸塩(「バイカーボネート」と同じ。)を除く原液Ⅰ(カルシウム、マグネシウム塩を含有)と、重炭酸塩のみの原液Ⅱのいずれか一方の原液に温水を加えた稀釈混合液に他方の原液を混合して透析液とし、末端の患者監視装置での透析液の温度調整を間接加熱方式で行う透析液の調整法が記載されており、同二(特開昭五一-六五四六七号公報)には、ヒーター(36)で加熱され、脱気された水に血液透析用の濃縮液を混合して透析液とし、透析器に入る前に透析液の温度が生理温度(約三七℃)でないならば警告を提供するのに適したサーミスター(90)を通過することにより、透析液が人工腎臓に使用するのに適した温度になるように稀釈水を加熱する透析液の調整法及び該水の脱気は、透析液中に気体が存在すると、気泡が透析膜に捕捉され透析を妨げるので行う旨の記載がある。

3  本願発明と引用発明一とを対比すると、両者は、重炭酸塩含有濃厚液とカルシウム塩及びマグネシウム塩含有濃厚液の少なくとも一方を加温された水で稀釈した後、該両液を混合し調整する透析液調整法の点で一致している。

これに対し、稀釈水の加温が本願発明では所定温度であるのに対し、引用例一では三〇℃に加温することが具体的に示されている点(相違点<1>)及び本願発明では稀釈水は脱気されるのに対し、引用例一にはこの点についての記載がない点(相違点<2>)で両者は相違する。

4  相違点<1>についてみると、本願発明の稀釈水の所定温度の加温は、透析液が透析時に体温と等しい約三七℃の温度になるような温度であり、具体的には四一ないし四二℃の温度が示されており、それにより調整された透析液を加温する必要がなく、また、加温するにしても僅かの加温ですむので、ヒータによる直接加温を必要とせず、加温による沈殿の生成という問題を回避できる(明細書七頁一〇ないし一五行)効果を奏する旨主張する。これに対して、引用例一には、稀釈水の加温は具体的に三〇℃で行うことが示されており、本願発明の具体的な所定温度である四一ないし四二℃よりは低いが、該加温水で稀釈することにより透析液の体温への加熱は間接加熱で行うことができ、それにより従来透析液を直接加熱することよる炭酸ガスの発生、pHの上昇、炭酸塩の析出という問題を防止できることが示されており、本願発明においても、透析液が体温より低い場合は間接加熱されることは、本願明細書の前記記載から明らかであり、また所定温度は四一ないし四二℃に限定されるものでもないから、引用例一においても透析液が間接加熱で簡単に体温に加熱できる程度に稀釈水の加熱温度を三〇℃から四〇℃前後の所定温度にすることは適宜なし得る単なる条件の変更にすぎないことと認められる。さらに、濃縮液を加温水で稀釈して透析液を調整するに当たって、稀釈水の温度を透析液の温度が生理温度となるように加熱する透析液調整法は引用例二に示されているので、引用例一における稀釈水の温度を、透析液の温度が体温と等しくなるようにして実質上加熱しなくてすむ所定温度に加熱することは、引用例二の記載からも当業者が容易になし得ることと認められる。

相違点<2>についてみると、引用例二には透析液には気体を含んではならないこと、そのため加温された稀釈水を脱気すればよいことが示されており、このことは透析液に一般的に適用される技術事項と認められるので、相違点<2>は、引用例二の記載に基づき当業者が容易になし得る操作にすぎないものと認められる。

そして、本願発明の効果における、加温された稀釈水を用いることにより、従来問題とされた炭酸ガスの発生とカルシウム塩及びマグネシウム塩の析出を防止し得る旨の効果は、引用例一に示されていることであり、また、引用例二に示されているように脱気を稀釈水について行うことにより、透析液から脱気する必要がないことが示されており、この場合には透析液から脱気することにより炭酸ガスが発生することによる問題は生じ得ないのであるから、いずれの効果も引用例から予測し難い格別のものとは認められない。

なお、出願人(原告)は、引用例二は水道水中のカルシウム塩及びマグネシウム塩の沈澱を防止しようとするものであり、本願発明の課題と異なると主張するが、水道水を稀釈水として用いることのできる本願発明についても、引用例二の稀釈水の加温条件はむしろ考慮されるべきものであって、引用例二を引用例一と組み合わせて本願発明を勘案することができないというものではない。

5  したがって、本願発明は、各引用例の記載に基づいて、当業者が容易に発明することができたものと認められるから、特許法二九条二項により特許を受けることができない。

四  審決の取消事由

審決の理由の要点1は認める。同2のうち、引用例二の「透析液が人工腎臓に使用するのに適した温度になるように稀釈水を加熱する」との部分を争い、その余は認める。同3は認める。同4、5は争う。審決は、引用例二の技術内容の把握及び各相違点についての判断を誤るとともに、本願発明の顕著な作用効果を看過したものであるから、違法であり、取消しを免れない。

1  相違点<1>の判断の誤り(取消事由(1))

引用例一における稀釈水の加温は三〇℃で行うことが具体的に示されているが、稀釈水を右温度まで加温することとされたのは、以下の理由による。すなわち、従来においては、重炭酸塩系透析液を高温で加熱すると、炭酸ガスが発生し、種々の問題が発生するため、原液と稀釈水はできるだけ低温で混合した方が好ましいと考えられていたこと、及び、透析装置では、透析液を調整してから透析に使用するまでの温度低下及び透析液の加温を考慮して、熱効率の観点から、稀釈水の温度が三〇℃の時に熱効率が良く、経済性が良いと考えられていたことによるもので、これらの制約条件から、稀釈水の加温は厳格に三〇℃と規定されていたのである(このことは、甲第七号証の三「Bicarbonate使用透析液の臨床的再検討と透析装置のシステム化」においても、特段の言及をすることなく稀釈水の温度を三〇℃としていることからしても、これが当時の技術水準であることを物語っていることからも明らかである。)。

このような中で、本願発明においては、稀釈水の温度を約四〇℃、すなわち三九ないし四一℃とすれば、経済性は若干悪くなるが、何ら問題が生ずることがないことを初めて知見した結果、本願発明の所定温度に稀釈水を加熱することにより、調整された透析液を加温する必要がなく、仮に、加温するにしても、僅かな間接加温で済むという効果の得られる前記の加温温度を採用し得たものである。したがって、前記のような二つの制約条件から、稀釈水の加温温度が三〇℃と厳格に制約されている中で、本願発明における稀釈水の加温温度を想到することは容易ではなく、したがっで、「稀釈水の加温温度を三〇℃から四〇℃前後の所定温度にすることは適宜なし得る単なる条件の変更にすぎない」とする審決の認定判断は誤っている。

また、引用例二は、炭酸ガスの発生を考慮する必要がないアセテート系の透析液に関するものであり、本願発明に係る透析液とは全く種類を異にするものである。その上、同引用例は、米国においては水道水にマグネシウム、カルシウムが多く含まれていることから、水道水を脱気すべく高温に加熱すると、マグネシウムやカルシウムが炭酸塩として沈澱するという不都合が生ずるため、かかる不都合の解決を課題とするもので、本願発明における課題と解決すべき課題を全く異にしている。したがって、稀釈水の温度設定条件を全く異にする。さらに、引用例二には、加熱装置がないことからすると、透析時の透析液の温度は生理温度よりも少なくとも約三℃低くなるのが当業者の常識であり、同引用例の記載自体誤りであるというべきである。したがって、このような問題点を有する引用例二を、本願発明についての容易推考の判断の引用例とすること自体不適当というべきであり、同引用例は、引用例としての適格性を有するものではない。

仮に、適格性を有するとしても、引用例二の記載内容には前記のような誤りがあるのであるから、審決が引用例二では「透析液が人工腎臓に使用するのに適した温度となるように稀釈水を加熱する」と認定した点は誤りである。また、本願発明における稀釈水の温度と引用発明二の稀釈水の温度との間には約二℃の温度差があるところ、この温度差により、引用例二においては間接加温の問題が生ずることになるから、当業者にとって右の温度差は無視し得ない大きな温度差であり、かつ、アセテート系の透析液であることからすると、審決が、引用例一及び引用例二に基づき、稀釈水の加熱温度を三〇℃から四〇℃前後の所定温度にすることは適宜なし得る単なる条件の変更にすぎないと認定したのは、誤っている。

2  相違点<2>の判断の誤り(取消事由(2))

引用例一が記載された当時においては、重炭酸塩系透析液においては、脱気ではなく、かえって組成の安定化を図るために一定量の炭酸ガスを稀釈水ないし透析液に注入する必要があると認識されていたのであり、本願出願当時におけるかかる技術水準に照らすと、重炭酸塩系透析液において、本願発明のように稀釈水から脱気する構成に想到し、炭酸ガスを除去することは困難な状況にあった。審決は、引用例二から脱気についての示唆を受け得るとするが、同引用例は、既に述べたように、本願発明に係る透析液とは成分を異にするアセテート系の透析液に係る発明であるから前述したように引用例として不適格であり、かかる透析液において加温による脱気が行われていたとしても、これを本願発明に係る透析液に及ぼすことはできない。また、仮に同引用例を本願発明に係る透析液に適用できるとしても、前記のような認識のもとに炭酸ガスを注入していた技術状況に鑑みると、審決の認定する「透析液には気体を含んではならないこと、そのために、加温された稀釈水を脱気すればよいこと」は、アセテート系透析液に適用される技術的事項であり、これが「透析液に一般的に適用される技術的事項と認められる。」とした審決の認定は誤っている。したがって、重炭酸塩系透析液において、加温によって脱気することを想到することは極めて困難であり、引用発明二を同発明一に組み合わせて相違点<2>の構成を想到することは、当業者が容易になし得る操作にすぎない、とした審決の認定判断は誤りというべきである。

3  顕著な作用効果の看過(取消事由(3))

本願発明は、予め所定温度に加温された稀釈水を用いて透析液を調整することにより、透析液を通常加温する必要をなくし、また、加温するとしても僅かな加温で済ますことができるようにし、ヒーターによる直接加温による炭酸ガスの発生をなくし、炭酸ガスの発生に起因するpHの上昇及びマグネシウムやカルシウムが炭酸塩として沈殿することを防止し、重炭酸塩系透析液の組成に異常が生じないようにしたものである。

この点につき、なるほど、引用発明一は間接加温ではあるが、「毎分一〇〇〇ml/minの透析液供給を目的とし」(四九五頁左欄一八、一九行目)ているものであるから、前記のような三〇℃程度の稀釈水の加温温度では、間接加温装置周囲の透析液はかなりの高温となることが予想されるため、この高温による炭酸ガスの発生、pHの上昇、マグネシウム塩、カルシウム塩の生成、沈澱等の問題が生じ、重炭酸塩系透析液の組成に異常が生ずるのであるから、引用発明一の加温温度では、本願発明が奏する、間接加温で、均一かつ良好に行うとの効果は期待できないのである。したがって、本願発明の前記の効果は、稀釈水を所定温度に加温するという本願発明の構成を採用して始めて得られるものであり、このような効果は、前記各引用発明からはいずれも期待できるものではなく、当業者において予想し得る範囲を越えているものであり、これを格別のものとすることができないとする審決の認定判断は誤っている。

また、審決は、「引用例二に示されるように脱気を稀釈水について行うことにより、透析液から脱気する必要がないことは示されており、この場合には透析液から脱気することにより炭酸ガスが発生することによる問題は生じ得ない」と認定しているが、既に述べたように、同引用発明の透析液はアセテート系であるから、そもそも稀釈水及び透析液の何れを脱気しても炭酸ガス発生の問題は生じないのであるから、同引用発明から、重炭酸塩系透析液固有の問題である透析液の脱気による炭酸ガスの発生問題を回避したという本願発明の効果は予測し得るものではない。さらに、本願発明では、「重炭酸塩系透析液の稀釈水を所定温度に加温する」との構成と「重炭酸塩系透析液の稀釈水を脱気する」との構成を有機一体的に組み合わせた「所定温度に加温した稀釈水を脱気する」との構成により、稀釈水中から溶存気体をより多量に除去できるものである。これに対し、引用発明二が仮に本願発明に対する公知技術としての適格性を有するとしても、同引用例における稀釈水の温度は生理温度であり、本願発明の所定温度とは約二℃の温度差があるところから、同引用例においては本願発明程の稀釈水中の溶存気体を除去することはできないのである(甲第九号証参照)。

したがって、引用例二では、透析液の稀釈水の脱気時に、稀釈水中の溶存気体を本願発明程多量に除去できないのであり、前記の二℃の温度差は当業者にとって無視し得ない温度差である。

以上のように、本願発明の効果はいずれも引用発明一、二からは到底予測し得るものではなく、審決の「引用例から予測し難い格別のものとは認められない。」との判断は誤りである。

第三  請求の原因に対する認否及び反論

一  請求の原因に対する認否

請求の原因一ないし三は認めるが、同四は争う。

二  反論

1  取消事由(1)について

原告は、引用発明一で三〇℃の稀釈水を使用している理由は、従来、重炭酸塩系透析液を高温に加熱すると炭酸ガスが発生し、この炭酸ガスの発生に起因して、種々の問題が発生するため、原液と稀釈水の混合はできるだけ低温で混合すべきものと理解されていたと主張するが、右主張は根拠がない。すなわち、原告は、右高温がいかなる程度であるかを具体的に示さない上、右主張の根拠とする引用例一には、稀釈水の温度が三〇℃に制約される根拠は何ら示されていないから、重炭酸塩系透析液における稀釈水の加温温度を三〇℃とするのが、出願当時における技術水準であるとする原告の主張は失当である。

なお、原告は、本願発明における「所定温度」は、三九ないし四一℃であると主張するが、約三七℃の稀釈水を用いても僅かな加温で済む場合もあることからすると、約三七℃前後の範囲を包含しているものと解すべきであり、原告の前記主張は根拠がないし、仮に、この点を原告主張のとおり理解し得るとしても、本願発明が引用例一、二に基づいて容易に推考し得たものであるとする審決の結論に影響するものではない。

2  取消事由(2)について

本願発明において、透析液中から脱気しようとする溶存気体は、透析液中に注入されることのある炭酸ガスではなく、引用例二に示されるのと同様な透析液調整に用いられる稀釈水に溶存する気体である。したがって、透析液中に炭酸ガスを注入することと、溶存気体を脱気することとは別個のことであり、何ら矛盾することではない。そして、引用例二においては、透析液から脱気すべき気体は空気であり、これは透析液を調整するための稀釈水中の溶存空気によるものが主なものであること、気体が透析液中に存在すると、気泡が透析膜に捕捉され、気泡が透析液と膜との接触を妨げている場所は透析が行われず、効率が低下すること、透析液は実質上気体を含んではならないこと等(引用例二)からすると、透析液の種類に係わりなく、透析液中には気体を含んではならないことが示されているのであり、溶存気体を脱気するためには、炭酸ガスを注入する前に、予め脱気すればよく、そうすれば、当該透析液から脱気する必要はなく、原告主張のような炭酸ガスの除去による種々の問題の発生もなく、炭酸塩の沈澱を生ずるおそれもないことは明らかである。したがって、審決が「このことは透析液に一般的に適用される技術事項と認められる」と認定したことに何らの誤りはない。

なお、原告主張の脱気効率についてみると、水からの脱気は、大気圧下の沸騰温度一〇〇℃以下の温度においては、脱気できる平衡蒸気圧以上にするためには、温度とともに減圧によって大きく左右されるものであり、引用例二においても減圧下に行っている。してみると、水からの脱気を引用例二に示されたように約三七℃で行うか、それとも本願発明のように四〇℃前後で行うかによって、脱気効率が直ちに格別良くなるというものではないのである。

3  取消事由(3)について

仮に、本願発明において、原告主張のように少なくとも約三九ないし四一℃の稀釈水を用いるものとしても、本願発明は、引用例一、二の記載事項を組み合わせれば、右各引用例の記載に基づいて、当業者が容易に発明し得たものであることは明らかであるから、本願発明の効果を各引用例の記載から予測し難いとすることはできない。

理由

一  請求の原因一ないし三の事実は当事者間に争いがなく、審決理由の要点のうち、本願発明と引用発明一との一致点及び相違点が審決摘示のとおりであることは当事者間に争いがないから、本件の争点は、相違点<1>及び<2>の判断の当否並びに本願発明の作用効果の看過の有無であるので、以下、この点について判断する。

二  本願発明の概要

成立に争いのない甲第二号証(本願発明に係る出願公告公報、特公昭六一-三二〇二二号公報)によれば、以下の事実が認められる。

本願発明は、血液透析に使用される重炭酸塩系透析液の調整法に関するものである。従来、透析液にバイカーボネート(重炭酸塩)を使用する場合には、含有されているカルシウム及びマグネシウムが炭酸塩として沈澱して透析液の組成を変化させるおそれがあるところ、かかる変化を防止するために、重炭酸塩含有濃厚液とカルシウム塩及びマグネシウム塩含有濃厚液が直接混合しないように、一方の濃厚液を稀釈水で稀釈してから他方の濃厚液を加えて調整する方法や、各濃厚液を稀釈水で稀釈してから混合し、規定濃度の透析液を調整する方法が採用されてきた。そして、かかる方法による場合には、透析液は透析時に体温と等しい約三七℃の規定温度に加温されている必要があるため、この加温段階において炭酸塩が沈澱生成する危険性があり、特に、加温がヒーターによる透析液の局部加熱による場合には沈澱生成が起こりやすく、加熱操作に慎重な注意を要するという問題があった。また、従来、混合前に濃厚液及び稀釈水の加温を行っているため、混合によって気泡が生じ、濃度あるいはpH等の指示値が不正確になったり、特に容量方式で稀釈が行われる場合には、気泡の存在のため容量値が不正確となり、濃度等に異常を生ずるなどの問題が生じていた。さらに、気泡が透析液の透析膜上に付着して有効膜面積の減少を生じ透析効率の低下をもたらすことがないように、稀釈混合液の脱気を行っているが、この脱気により透析液から炭酸ガスが除去され、その結果透析液のpHが上昇しカルシウム塩やマグネシウム塩の沈澱を生ずるという問題点もあった。

本願発明は、以上のような従来の重炭酸塩系透析液の有した問題点の解決を課題としたものであり、本願発明において採択した方法は、稀釈水を予め所定温度に加温し、かつ、脱気することにより上記の問題点を解決したものである。すなわち、本願発明は、重炭酸塩含有濃厚液とカルシウム塩及びマグネウシム塩含有濃厚液の少なくとも一方を稀釈水で稀釈した後、両液を混合し調整する透析調整法において、稀釈水が予め所定温度に加温され、かつ、脱気されていることを特徴とする重炭酸塩系透析液の調整法である。

本願発明の調整法によると、<1>稀釈水を予め脱気してあるので、調整された透析液を脱気する必要がなく、したがって、脱気に起因する透析液中のカルシウム塩やマグネシウム塩の沈殿を生ずることがない、<2>稀釈水を予め所定温度に加温してあるので、調整された透析液を加温する必要がなく、また、加温するにしても僅かの加温ですむので、ヒーターによる直接加温を必要とせず、したがって、加温による沈殿物の生成という問題を回避できる、<3>混合前の加温された稀釈水を脱気しており、また、濃厚液の量は相対的に少ないので、混合によって気泡を生ずることがなく、したがって、濃度やpHの指示値が不正確になったり、容量方式で稀釈を行う場合、容量値が不正確になることを防止することができる、等の効果を生ずる。

三  審決の取消事由について

1  取消事由(1)について

成立に争いのない甲第三号証の一、二(大坂守明他七名「Bicarbonate液用透析装置のシステム化」、「人工臓器」一九七八年七巻二号収録、引用例一)によれば、引用例一には、安定したBicarbonate濃度の透析液を連続的に作成できる自動供給装置及び患者監視装置のシステム化を図った研究において、Bicarbonate透析液の加温の問題につき、「Bicarbonate透析液は液温度が六〇℃以上に達すると、炭酸ガスの発生が著しくなりpHの上昇とともに透析液中に炭酸塩が析出する。この現象は、透析液の加温を直接ヒーターによつて行なつたり、透析装置を熱消毒する現在一般に用いられている装置の場合にどうしても生ずることになる。特に炭酸塩の結晶が、ヒーター表面や透析液配管系内に付着し、熱効率の低下や、ヒーター劣化、配管の破損のみならず沈殿物の流出によりDialyzerの膜破損の原因にもなる。そこで、透析液の加温は、透析液供給装置側ではBicarbonate原液混合前の水を加温する方式にしてあり、また、患者監視装置側では熱交換器による間接加温方式を採用することが必要となる。そこで、我々の供給装置では、先ず稀釈水を三〇℃に加温して混合し、末端の患者監視装置での温度調整は間接加温方式の閉鎖型間歇透析装置を用いており、この条件を満たすことが出来ている。また、本装置は熱湯消毒となつているため、熱消毒した場合には、透析液配管系の温度が約四五℃以下に冷却されてからBicarbonate液が注入されるような配慮もなされている。」(四九五頁左欄下から二行ないし右欄一八行)との記載があることが認められ、この記載によれば、Bicarbonate透析液は液温度が六〇℃以上に達すると、炭酸ガスの発生が著しくなりpHが上昇すると同時に透析液中に炭酸塩が析出するため、透析液を直接ヒーターで加温する方式の場合には、特に炭酸塩の結晶が、ヒーター表面や透析液配管系内に付着し、熱効率の低下や透析器の膜破損等の問題を生ずること、そこで、前記研究における透析液供給装置においては、以上のような問題点を避けるために、Bicarbonate原液混合前の水、すなわち稀釈水を加温する方式及び患者監視装置おける温度調節を間接加温で行う方式を採用することとし、具体的には稀釈水の加温温度を三〇℃に設定したこと、さらに、透析液供給装置の消毒に熱湯消毒方式を採用することから、熱湯消毒した場合には、透析液配管系の温度が約四五℃以下に冷却されてから注入するようにし、前記の炭酸塩の沈澱を防止したものであるといえる。

以上によれば、前記研究において示されたところからは、Bicarbonate透析液の加温は六〇℃に達すると炭酸塩の沈澱が著しくなること、したがって、右温度が炭酸塩の沈澱を防止する上での限界的条件であることは明らかなところである。なお、成立に争いのない甲第八号証(特開昭五四-一三八七九七号公報)には、重炭酸イオンを含有する透析液を使用する透析装置の発明において、透析液調整用の加熱器として使用する熱交換機の接液表面部を七〇℃以下に保持することにより透析液が加熱器を通過する際の炭酸塩の析出を有効に防止し得ることが記載されており、この記載と引用例一の重炭酸塩系透析液の加温は六〇℃に達すると炭酸塩の沈澱が著しくなる旨の前記記載との間には約一〇℃の差があるが、いずれにしても、重炭酸塩を含有する透析液において、加熱による炭酸塩の析出を防止するための上限温度としては六〇ないし七〇℃が限界であることを示しているものと解することができる。

ところで、引用例一において採用された具体的な透析液調整装置において、稀釈水の温度が三〇℃に設定された理由については、右温度が透析液の加温温度に関する前記の限界的条件を充足するという以外には何ら格別の理由が付されていないこと、及び、熱消毒を行った場合における透析液の配管系における炭酸塩の析出を防止するために、配管系が約四五℃に冷却してからBicarbonate液を注入していることからすると、引用発明一が採択した稀釈水の加温温度三〇℃が、限界的意義があるものとして選択決定されたものと解することは到底困難といわざるを得ず、前掲甲号証の他の記載を精査しても、稀釈水の加温温度三〇℃が限界的意味を有するものであることを窺わせる記載は認められない。そうすると、右加温温度の設定は、炭酸塩の沈澱を防止する上での前記の引用例一に示された限界的条件の中で、適宜安全を見込んで設定された温度と解するのが相当というべきである。

この点について原告は、甲第七号証の三(「Bicarbonate使用透析液の臨床的再検討と透析装置のシステム化」人工透析研究会会誌一一巻一号、一九七八年)を援用して、前記加温温度三〇℃には限界的意義があると主張するので、以下、検討する。

成立に争いのない右甲号証によれば、右甲号証記載の研究において実施された透析液の混合において用いられた稀釈水の温度は三〇℃であることが認められるところであるが、右甲号証には、稀釈水の加温温度として三〇℃を採用した理由についての記載は全くないから、右甲号証の記載をもって、稀釈水の加温温度三〇℃に限界的意義があるものとまで認めることはできないといわざるを得ない。のみならず、右甲号証と前掲甲第三号証の一、二とを対比すると、両研究は、いずれも虎の門病院腎センターに所属する研究者らによるもので、研究の時期を同じくするばかりか、研究者も殆ど重複していることが認められることからすると、前掲甲第七号証の三の記載が同甲第三号証の一、二おいて有した前記の意味以上のものを有するものとは認め難いものいうべきである。

また、原告は、本願出願前においては、熱効率の観点から、稀釈水の温度が三〇℃の時に熱効率が良く、経済性が良いと考えられていたと主張するが、本件全証拠を検討してもかかる事実を窺わせる証拠はないから、原告の右主張も採用できない。

したがって、本願出願前の技術水準において、稀釈水の加温温度を三〇℃に設定することに限界的意義があったとする原告主張はこれを裏付ける根拠がなく、採用できない。

しかして、前記認定の事実からすると、透析液の加温温度の上限は六〇℃近くであり、かつ、透析液の直接加温を避け、三〇℃の稀釈水で加温する方法が、引用例一に開示されており、かつ、右の温度設定に限界的意義が見いだせない以上、右稀釈水の温度を前記の透析液の温度の上限の範囲内において適宜変更することは当業者であれば容易に行うことができたものと認めるのが相当であるから、仮に前記の本願発明の要旨にいうところの所定温度が原告主張の三九ないし四〇℃であるとしても、前記の引用例一に開示された加温条件の中で、かかる温度を採用することも、当業者において適宜なし得たことというべきであるから、引用例二について検討するまでもなく、原告の取消事由(1)は採用できない。

2  取消事由(2)について

成立に争いのない甲第四号証(引用例二に係る公開特許公報)には、「透析液は実質上気体を含んでいてはならない。もし気体が透析液中に存在すると、気泡が人工腎臓の透析膜に捕捉されるであろう。気泡が透析液と膜との接触を妨げている場所においては、人工腎臓内で透析が行われることができない。もし気体が存在すると人工腎臓の効率が低下する。調合機械において、もし気体が濃縮液または水のいずれかに存在すると、透析液中に気体が存在することとなる。もし通常の水道水を使用すると、普通いくらかの気体がその中に存在する。かくして完全な透析液送りシステムは水または透析液いずれかの脱気手段を含まなければならない。」(三頁右上欄三行ないし一四行)、「(本発明において)・・・水の脱気を行うため、水を負圧を保つている脱気室へ導く。・・・脱気室の負圧は水中の気体が気泡となり、脱気室の頂上へ上昇するのに適したレベルである。・・・脱気が生理温度で行われるので、カルシウム塩およびマグネシウム塩は有意義な量では沈デンしない。」(前同頁右下欄一六行ないし四頁左上欄九行)との各記載が認められ、他にこれを左右する証拠はない。

右記載によれば、透析液中に気体が含まれている場合には、この気体が人工腎臓の透析膜に捕捉される結果、透析液と透析膜との接触が妨げられ、人工腎臓の効率が低下する問題点があるため、引用発明二においては、右問題点を回避するため、透析液中の気体を予め減圧状態にした脱気室で、生理温度で脱気する方法が開示されているところである。

ところで、原告は、引用発明二は、アセテート系の透析液であるから、本願発明に係る重炭酸塩系の透析液には妥当せず、前記の脱気に関する開示から示唆を受けることはできないと主張するので、まず、この点について検討する。

引用発明二がアセテート系の透析液であることは当事者間に争いがないところであるが、引用発明二に関する技術的事項が重炭酸塩系の透析液に対しても示唆を与え得るか否かは、それがアセテート系であることに固有の技術的事項か否かを基準として検討すべきであり、かかる観点から前記の透析液からの脱気に関する点をみると、前記認定の透析液からの脱気を必要とする理由からすると、この問題は専ら、透析液中に含まれる気体と透析膜との関係から生ずる問題であって、当該透析液の種類によって左右される問題ではないことが明らかである。そうすると、透析液の脱気の問題は、透析液の種類を問わない透析液一般に通ずる問題であると認めるのが相当であるから、引用例二の前記開示から、重炭酸塩系の透析液においても脱気についての示唆を受けることは可能というべきであり、これを妨げる理由を見いだすことはできない。したがって、この点に関する原告主張は採用できない。

原告は、引用例一が記載された当時においては、重炭酸塩系透析液においては、組成の安定化を図るために一定量の炭酸ガスを稀釈水ないし透析液に注入していたことからすると、透析液から脱気することに想到することは困難な状況にあったと主張する。

前掲甲第三号証の二並びに成立に争いのない甲第七号証の二(天野他「不均衡症候群に対するacetate free透析液の效果について」、「人工透析研究会会誌」一一巻一号一九七八年収録)及び同乙第一号証(山本他「Bicarbonate dialysateによる多人数供給装置について」、「人工臓器」七巻二号一九七八年収録)によれば、本願出願前の昭和五三年当時、原告主張のとおり、bicarbonateを含有する透析液の濃度ないしpH調整を行うために、一定量の炭酸ガスを透析液ないしは稀釈水に持続的に注入している事実が認められるところである。ところで、前掲甲第四号証の前記記載によれば、アセテート系透析液における脱気は、稀釈水として使用される通常の水道水中に溶存する気体を排除するものであるところ、右水道水中の気体は通常空気であると認められる。これに対し、重炭酸塩系透析液の調整法に関する右の各書証によれば、稀釈水に関し何らの限定がないことからすると、アセテート系と同様に通常の水道水を使用するものと推認することができ、そうすると、重炭酸塩系透析液においても脱気により排除するものは稀釈水中の空気であるところ、空気中に含まれる炭酸ガスの量が極めて微量であることは公知の事実というべきである。このことは、重炭酸塩系透析液に関する前記の各書証をみれば、稀釈水を脱気している形跡の窺われない場合においても、前記のようにpH調整等の観点から炭酸ガスを注入している事実からも明らかなところというべきである。してみると、脱気により溶存空気中の炭酸ガスが失われるとしても、そのことと、前記目的による炭酸ガスの注入とは別個の技術的事項と理解されていたものというべきであるから、右目的による炭酸ガスの注入の事実が、稀釈水を脱気することを想到することの障害となるものと認めることはできず、したがって、原告の主張は採用できない。

3  取消事由(3)について

原告は、本願発明の効果はいずれも引用発明一、二からは到底予測し得るものではなく、審決の「引用例から予測し難い格別のものとは認められない。」との判断は誤りであると主張するので、以下検討する。

前記二に認定したとおり、本願発明の奏する効果は、<1>稀釈水を予め脱気してあるので、調整された透析液を脱気する必要がなく、脱気に起因する透析液中のカルシウム塩やマグネシウム塩の沈殿を生ずることがないこと、<2>稀釈水を予め所定温度に加温してあるので、調整された透析液を加温する必要がなく、また、加温するにしても僅かの加温ですむので、加温による沈殿物の生成を回避できること、<3>混合前の加温された稀釈水を脱気しており、また、濃厚液の量は相対的に少ないので、濃度やpHの指示値が不正確になったり、容量値が不正確になることを防止することができること等の効果である。

ところで、まず、前記<2>の効果についてみると、この効果は稀釈水を本願発明の所定温度に加温したことによるものであるが、既に、前記三、1においてみたように、引用例一に開示されたところから本願発明の所定温度まで沈澱物の生成を生ずることなく稀釈水の加温温度を上げることは当業者において適宜なし得るところであるから、右効果も当業者において予測できない効果とはいい難く、したがって、この効果を格別のものとすることはできない。原告は、三〇℃程度の稀釈水で加温する引用発明一においては、間接加温装置周囲の透析液はかなりの高温となる結果、重炭酸塩系透析液の組成に異常が生ずるから、引用発明一の加温温度では、稀釈水を所定温度に加温するという本願発明の構成を採用して始めて得られる、間接加温で、均一かつ良好に行うとの効果は期待できないとし、かかる効果は、当業者の予測を超えるものであると主張するので、この点についてみると、引用例一に係る前掲甲第三号証の二には、加温温度を三〇℃に設定した引用発明一の装置の使用状況について「本Bicarbonate透析液供給装置を用いて約三ヶ月間連続使用しているが現在まで安定して作動している。」との記載(四九五頁右上欄一八行ないし二〇行)が認められ、この記載によれば、原告主張のような問題点が生じているものとは認め難く、他にかかる問題点の発生を窺わせる証拠はないから、原告の前記主張はその前提を欠くものであって、採用できない。

次に、前記<1>の効果についてみると、この効果は稀釈水を予め所定温度で脱気したことによるものであるが、既に、前記三、2においてみたように、引用例二に開示されたところから稀釈水の脱気を想到することは当業者にとって容易であるというべきであり、また、引用例二においては、脱気を減圧下で、かつ、生理温度で行っていることが開示されていることは前記認定のとおりであることからすると、沈澱物を生ずることなく脱気を可能とする温度を適宜選択することも当業者が容易に行い得るところと認められるから、この効果を格別のものとすることはできない。さらに、<3>の効果についてみると、これは、稀釈水の所定温度による加温及び脱気によるものであるが、これらは前記の所定温度の加温及び脱気に付随する効果であるものと認めちれるから、これをもって格別の効果とすることができないことはいうまでもないところである。

したがって、取消事由(3)も採用できない。

以上のとおり、原告主張の取消事由はいずれも採用できないから、審決に違法はなく、審決は正当というべきである。

四  よって、本訴請求は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 松野嘉貞 裁判官 押切瞳 裁判官 田中信義)

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